鳩山総務相が、公然わいせつ罪で逮捕されたSMAPの草なぎ剛さんに対して、「最低の人間」とまずいい、その後「最低の行為」にいい直したという報道がありました。その後、総務省には電話が鳴り止まず、大半が草なぎさんに同情的な内容であったということです。この報道が過熱しているかどうかはさておいて、つくづく、日本は人を裁く社会になっていっているのではないかと思うわけです。
もちろん、今回の事件において、本人が行った行為は問題視されるべき内容ではあります。しかし、今回鳩山総務相が激昂のあまり口走った言葉に見える「犯した人の人格や存在を責める、罰する」という傾向は、今の日本のいろいろな局面に見ることができ、社会の閉塞感を強めている要素ではないかと思います。
学校でのいじめも、そのひとつの現れでしょう。そもそも、他人を裁くということは、自分たちの論理が正しく、その他はすべて間違っている、間違っているから相手が自分の論理に合うような形にしてくれなければ、「だめ」という烙印を押して罰してしまうというメンタリティなわけです。
極めて、一方的な、また幼稚な発想です。
この社会には、もっと「寛容さ」が必要とされています。真の寛容とは、けっして全てを許すという意味ではありません。自分と異なる意見を持つ人々に対して一定の理解を示し、たとえ相手が誤っているとしても、暴力や威嚇によってではなく議論によって説得を行おうとする態度(wikipedia抜粋)を意味します。
人を罰するという側面には、judgementalという傾向も含まれていると考えられます。Judgeというのは、動詞としては「判断する」という意味であり、名詞としては「裁判官」という意味があり、意味合いとしては「裁く」という要素が入っています。judgementalという言葉は、「判断(上)の, 判断に関する」という意味よりも、「倫理的な判断を下しがち、偏見をもって決めつける」という意味によく使われます。
子供が親に向かって、"You're too judgemental"というときは、「そんな(人間)だと決めつけないでよ」という訳がぴったりとくるでしょう。
これもまさしく、親こそが教科書でありその考え方はすべて正しいので、子供は自分の思うような生き方をするべきであるし、行動パターンでなければならないという考え方が根本にあります。
人間は完全な人間はおらず、支え合って生きていくしかありません。人との接触がまったくない独房に入れられた囚人は、遅かれ早かれその精神にひずみが出るそうです。
人間は感情の生き物であり、それ故に、自分の思うどおりにならなければ他人が悪いと思ったり、環境のせいにしたりします。自立という言葉がありますが、自分を律して周りに左右されずに一人の道を確立することができるという意味だと私はとらえています。それも周りを無視した、または干渉されないための一人の道という意味ではもちろんありません。自立するには、訓練が必要です。日本は社会としてはもともとお互いに「寄りかかる」ことができる社会。その中で真の自立を実現できる訓練は自らが意志をもって行う必要があります。
残念ながら現在の日本の教育システムで、自立または自律を教えることはやっていなさそうです。人を裁く社会、人を罰する社会になればますます創造性の芽はつまれ、そうなれば国際競争力もさらに弱まるでしょう。我々ひとりひとりには、限りないポテンシャルがあります。もし社会の閉塞感でそのポテンシャルを活かすことができない結果になれば、それは本当に惜しいことです。なぜならば、私たち人間は1回の人生しか生きることができないからです。
明治維新前後には様々な考え方をする人々がいました。江戸幕府が自分たちの考え方とそぐわない人たちを必死でおさえようとしても、社会がすでにそのような人たちを受け入れる寛容性を持ち始めていたことで、新しい日本が作られたと考えることができます。
現代に生きる我々は、歴史から再度、今に必要とされているものを学ぶ必要があるのではないでしょうか。